おむすび と おにぎり の違い2014/01/27

おむすび おにぎり
おにぎり と おむすび の違いは何か。故事来歴は別にして、文字通り作ってみたらどうなるか・・・・

お握り・・・握るのは簡単にできた。 お結び・・・結ぶのはなかなか困難だった。出回っているのは お握り なのだ。

8月のお終いの御挨拶2013/09/18

暑い夏でした。ちょうど、煮えたぎる鍋の湯のような夏だったと思える程・・。ちょうど「乱流」のようでした。 

暑さで、何も出来なかったと思いつつ・・・、振り返ると案外と数多くの事が起きているのが、夏ではないでしょうか。

人生の出来事と気温ともちろん無関係ではないでしょう。氷から水、そして水蒸気へ・・温度のものさしのある点で、相の転移がおこります。

低温では、じっとしている水も、特定温度から渦が出来て、やがて「乱流」となります。夏の入道雲、洪水の水流、みな乱流です。

 夏の自然現象の激しい変化も、変動幅の大きい気象状況も、高温ゆえの「乱流」状態がもたらすものです。さらなる温度上昇に対して、乱流の状態を経て、やがて乱流が崩壊する均一相に移行します。

 生命は、この乱流の中で出来たとする学者がいます。大きな流れの中に、一時それに逆らう小さい乱流が出来、それが泡となり、細胞となり、生命の起源となったのではないか。多少乱雑な理論ですが、頷ける所もあります。

海水の巨大な流れである海流も所々に乱流ができ、予測不可能な動きをみせます。日頃、認識してないでしょうが、私達の生活はこの海や大気の乱流に配されています。

 異なる流れの接する場所は、生物にとって好ましい所です。黒潮と親潮の交わる海域が最高の漁場であることは、良く知られています。流れと流れのぶつがる所は、生命活動が活発な所と言っても良いでしょう。

いや、大きな渦の中の小さな渦が生命そのものかも知れません。

 暑い夏でした。でも、人生で意味ある出来事がおきるのが夏。旅に出て、見知らぬ世界や人に出逢う・・。ひとり過ごして、内面世界とであう・・。 

 暑い夏の夜には、不思議な夢をみるものです。それは、まるで心の中にも、乱流が出来て、あらゆる過去、あらゆる知識の断片が、掻き回されるようでもあります。

 その夢のうちに内面での出会いと別れを準備している事も。夏の太陽がもらたす、大きな乱流は、ひとりひとりの内面世界にも乱流を用意しているのでしょうか。

表面で変わらないように見える海も、深層部分では、乱流の塊と塊の出会いのドラマがあります。夏は、乱流塊のぶつかる季節でした。

もうすぐ、秋です。長い夏休みで離れていた日常の仲間に再開する人もいるでしょう。その時、夏の心の乱流の記憶をふと想い出してください。

夏の乱流がもらたした心の魂の成長がある事を。人は数分でも、違う方向を見て、違う場に立てば、もう違う乱流の世界で、自らの魂の世界を展開しているのです。

「塊」と「魂」、流れの塊と、心の魂の字が似ているのは、偶然ではないのかも。

  夏の風は嵐の風 
  たたかいの風  
  憎しみと愛の混じる風  
  濁り さわがしく   
  そして、  
  すべてを育てる豊かな風

     四季の風 より「夏」    

秋に向かって、乱流はゆっくりした定常流なっていきます。

その安定への過渡期に、夏の乱流の心世界の成果を、しっかりと実らせたいものです。  

【蛇足】 

またまた、月に一回の美文調・疑似科学的な意味不明な編集長の御挨拶でした。

なんだか空っぽのもです。・・まあ、 たまには空虚な文もお許しを。

え、いつも空虚だって・・・まあ程度の問題・・・・。

数年前のご挨拶の修正再掲です。

ミクロコスモス編集長 森谷昭一

【7月のご挨拶】なだらかに変わるもの・突然かわるもの2013/07/08

【7月のご挨拶】なだらかに変わるもの・突然かわるもの

 7月のいつの日に 急に夏になるのか・・・梅雨から夏に

 春は少しずつやってきます。雪の中に春のきざしをみつけながらも、ちょっとずつ春に近づきます。特に日本では。

 でも、夏は。 突然ある日、ある朝、夏になる。いきなりの青空とくっきり雲、そして風。 夏はきっぱり、くっきりやってきます。7月の頁をめくると、その日がいつかと想います。

地球上の現象には、すこしずつ、ゆっくり変わっていくことと、いきなりくっきり変わることがあります。どちらも地球の回転・・きわめて安定した礎の上の現象です。

でも、大気の性質、大地の起伏、生き物の化学特性・・そんなものから変化曲線が表象されるのでしょうか。

世の変化もきっと、確実に回ってく礎の上で、ゆっくり変わるものと、くっきり変わるものが表象されるのでしょう。

確実な動きをいつも覚えて、急にくる季節をみつけたいですね。

(蛇足) いつも月の最初の日に書く、季節の挨拶ですが、こんな日になってしまいました。季節の挨拶は、文学と科学をつなぐという課題を設けて書いています。また来月・・。

理解力のフィルター 限界2012/08/22

馬鹿の壁」と言うあられもない書名の本が養老孟司さんにあった。喧嘩になりそうな言い方なので、自分は「理解力のフィルター」「知的範囲の限界」とか呼んでいる。

養老さんの書物は、自分の理解力の限界を超えたものを、人は馬鹿だと思う・・そんな趣旨だった。知的範囲の限界を超えたものを、人は敵視するか、拒否するか、無視するか、そもそも感じ取る事すら出来ない。そして、理解力の限界はフィルターの網目となって、知識が移動していく事を妨げる。

「理解力の限界」と言う概念を使うと、身近な事を良く理解できる。ちっとも進まない議論、繰り返しばかりの会議、いくら言っても何も出来ない行政、暖簾に腕押しの人物・・・。大きな所では、いじめ、縦割り行政、国際間紛争、差別、魔女狩り・・・理解力の限界・境界付近で様々な事がおきている。

第三者として、かみあわない議論や紛争をみていれば、理解力の限界を冷静に観察もできるが、この限界ばかりは自己認識がきわめて困難なので、個として限界の外に出ることはほぼ不可能だ。

「ちっとも分かってくれないな・・」「こりゃ、駄目だ・・」、「話にならない・・」、そんな言葉で、理解力の限界からは遠ざかるしかないのだろうか。喧嘩にならない範囲で、理解力の限界どうしは、ある程度引き離しておくのも戦略ではある。

「理解力を高めるしかない、それは教育だ。広報だ。」理解力向上戦略の名のもとに、様々な教育・・・学校教育から、種々のキャンペーン、布教、洗脳まで、様々な名の下に知的範囲拡大作戦は繰り広げられる。しかし、これも広い視点でみれば、知識の境界線づくりに荷担してしまう。

理解力を向上させるには・・・知識を増やしても効果はあまりない。知恵とでもいうべき思考方法の構造破壊・脱構築・・でもするとかないのだろう。若い頃にとても難解な哲学書を開いてみたり、現代音楽を無理矢理聞き込んでみたり・・理解できないものに挑戦する時期が誰にもある。そんな時が、限界に挑んでいる時なのだろうか。

年齢・世代、民族・国家、職業・専門、経験・感性、・・・それらは、どんな「壁・限界」によって成立していくのだろう。限界・壁を崩壊させる方法はあるのか・・。

「知識単位学」と言う学問をつくろうと思っている。ライフワークなのかも知れない。知識の限界によって構成される様々な「知識単位」を示していくのは、初めに書いた、様々な社会問題を解決していくために有効だろう・・そんな思いもある。

自分はどんな理解力の限界をもつか、理解力のフィルターで何をこし分けているか。時々反省して見ると良い。FBのコメントなど観察するのも、理解力のフィルターを研究するには、とても良い材料だ。

理解力の限界を少しでも破壊するには、どうしたら良いか・・あまり方策はない。「諦めない事」くらいなのでろうか。

ここまで、読んで頂けた方の理解力に感謝するとともに、さらに高い理解力の持ち主に限界を教えてもらいたいとも思う。

編集長

わが青春の町 神保町2010/01/16

わが青春の街 のひとつが東京神田神保町だ。

http://www.ne.jp/asahi/micro/cosmos/bn/bn0303/bn030316.html

久しぶりに出かけた。始めていったのが高校生の頃だった。それからどれだけ通った事だろう。

お茶の水からの通りは、随分変わった。明大も巨大ビルになり、昔あったひなびたビルはなくなっていた。楽器店は増えて、楽器の街になっている。

変わっていない所は、少しも変わっていない。昔馴染んだ書店の棚は、そのままの所も少なくない。なんとなく覚えている店の主の顔も変わったような変わらないような・・・

でも、時代の流れは、神保町にも反映されているのだろう。コミックとかサブカルチャー系とか、少しずつ増えている。気付かないうちに、食べ物屋に変わってしまった古書店もあるようだ。

古書の香りと、学問を感じさせる品格は失って欲しくないのだが、アマゾンのようなWeb市場の拡大で、この世界の行方はどうなるのだろう。

書棚の狭い隙間をぬって、さまざまな異次元世界を探検できるスリルは、神保町にしかない。

なくなっていないかな〜・・と思いつつ、昔必ずよった天ぷら定食の店にいった。ちっとも変わっていない。同じように木のカウンターは磨かれていて、味も、サービスの仕方も少しも変わっていない。

客はひっきりなしに来て、絶えないようだ。大きくも、小さくもなっていない。きっばりと掃除された店の雰囲気は、どこにも代え難い。持続可能な・・・そんな言葉を絵に描いたような店で、久しぶりに昼食。

なじみの、生物系の書店が、2号店を開設していた。時代の流れで、この方面の書物はふえていくのだろう。ありがたい。

田舎と言えば田舎に住んでいるが、東京から離れて寂しいのは、神田のような凝縮された知識空間から遠ざかってしまう事だけだ。地元では手に入らない、地元についての書物が、神田にいくと手に入る。良い事なのか、どうか分からないが、地方分権とかいうなら、各地方に、神保町のような空間を作り出すことだろう。

わが青春の街、神保町を時々でもたずねると、若き日々に描いた夢が、よみがえってくる。

言語学者になりたかったあの頃
生物学でノーベル賞・・・
作曲家になりたかつた日
宗教学・人類学に夢をもった日々

無数の夢が、神保町の書棚しまいこまれたままだ。

夢を描くと言う夢・・・これだけは成し遂げたいと思う。

青春の街は、みんな心にもって欲しい。

編集長

忘れ物2010/01/05

へちがら

編集長の大失敗

も忘れ物ばっかりしている。歳のせい・・というか、先天性物忘れ・・・短期記憶欠陥・・だろう。

ドラッグストアと、食品スーパーが同フロアに並ぶ近くの大型店。乾燥どめのクリームを買った。ついでに、スーパーに移り野菜など購入。

レジの後、詰め込み作業・・・そっちに夢中になり、急いで帰宅。

風呂上がりにクリームを利用しようとして、忘れ物を思い出す。が・・・夜で、どうにもならない。

次の日、多分なかろう・・と思いつつ、ついでにスーパーに聞きにいく事にした。・・が、一度通り過ぎで、忘れてしまい、また家から、再度出かける事に。

クリームがないと・・・冬はかゆくて、どうにもならない。

スーパーのレジ横に忘れたのだから、スーパーの人に聞いてみた。

「あのう、昨日、ドラッグストアの袋の忘れものがありませんでした・・・」

「ああ、そういえば、ドラッグストアの方に渡したような・・」

と言って、ドラッグストアのレジに聞いてくれた。そしたら、有り難い事に、そちらに保管されていた。

こんな場合には、どちらに保管されるものか ? 

販売した店のレジの方が忘れ物取り扱い業務の担当と言うことになるようだ。まあ、そんな規約まではないだろうが。

とりあえず、めでたしめでたし。

まあ、どこかに紛失だろうと思っていたが、保管されていた。あまり確率の少ない事で「有り難い」事だ。

有り難いと言う言葉の本来の意義を確認した。・・・・

いつもいつも、忘れ物ばっかりで、紛失物ばっかりだから・・

本当に「がらくた」記事ですいません。

編集長

ストーブ破壊と運命の糸・2009/12/30

へちがら 編集長の大失敗

ストーブ破壊と運命の糸・・・


だぶだぶのズボンがいけなかった。石油ストーブを一台破壊してしまった。


台所の石油ストーブ。狭いのがいけないのだが、側を通ったら、なにやらひきつる感じがした直後、がしゃ〜ん・・・と巨大な音とともに、ガラスがとびちり、鉄の格子が引き曲がりって飛び出し、芯の所がころころっと転げ出した。


一瞬の出来事で、石油ストーブは完全に破壊されてしまった。古いので、部品調達も困難そうだ。困った。


そもそも、足の長さより長いズボンなどはいたのが間違い。もともと寸法違いで購入して、直しも面倒なままはき続け、タンスの奥にしまわれていたのを、どういうわけか排他のがいけない。


だぶだぶの「余り贅肉(布)」に、ストーブの格子の出っ張りが引っかかり、ひきずられて曲がり、それがストーブの芯の部分を引きずりだした。そのまま、飛び出して、床に落ちて、ガラスが がっちゃあ〜ん・・・もう使えない・・・


こんなにも簡単に、些細な原因で、一大事か起きる事に、偶然と運命の関係について、一時深く哲学的思考に入ってしまった程である。


火がついていなかったのが幸い。火がついていたら、もしかしたら、一軒全焼、焼死体が一体・・・可能性はない事もない。そもそも、大事件などは、些細な偶然からおこるものなのだ。だいたい、数年前にズボンの丈を間違えてかったのがいけない。そこから運命は始まっていた・・・・

簡単に言えば、世の中、いつ、何が起きるかわからない。「備えよ常に・・・」関係ないか。


ストーブがなくて寒い中、これを書いている。

※ へちがら とは、編集長のがらくた箱の略称です。過去のへちがら記事は下記から。

http://www.ne.jp/asahi/micro/cosmos/bn/mook/hetiga/hedex.html

職人と芸術家の違い2009/12/23

へちがら

   職人と芸術家の違い

「工芸作家」と呼ばれる「芸術家」と、「工人」「技能者」などの呼び方をする「職人」とはどこが違うのだろう。

「工房」をもって「先生」と呼ばれて○○会審査員とか肩書きがつく偉い人を「作家」と呼ぶのだろうか。お金をもうけるために工芸を職業とする人を職人と呼ぶのだろうか。

作品に作者の名前がつくのが「作家」で、無名で製品を出すのが「職人」なのだろうか。どうも、そんな些末な違いではなく、本質的な違いがある。

同じ物を二度と作らないのが作家、つまり芸術家だ。

正確に同じ物をいくつでもつくれるのが職人、つまり技術者だ。

自分はそのように定義している。

芸術家は創造が本質だから、同じ物を二度とつくってはいけない。まったく同じ絵を二枚描いた絵画の巨匠はあまりいない。それは弟子なり、贋作作り手がやる事だ。

芸術家の創作のエネルギーはいつも新しい物作りに向けられる。同じ事を繰り返せば、マンネリ化したとか批判される。展覧会をやって、「去年とあまり同じですね・・」とか言われたら作家失格と言う事になる。

職人は、反対だ。お皿を100個注文されたら、正確に同じものをつくらないといけない。微妙な違いは別としても、食器売り場で特定の目的の器を買う度に大きさが違っていては、使い手が困る。
商品は斉一性が求められる。納期に間に合わせて、きちんと完成させるのも職人の技のうちだ。

どちらが難しいか。実は、どちらも同じように難しい。創造的な作品のためには限りなく試作を繰り返す必要がある。創意工夫のめにに心身を削って打ち込むのが芸術家だろう。

同じ物をつくる職人は、それに較べて気楽だろう・・と思ったら大間違いで、同じ物を二つつくるには、また別の神経をすり減らす作業が控えている。例えば、木工でも陶芸でも「ろくろ」作業には、あまり物差しが使えない。

職人の勘だけで、正確に同じ寸法のものを作る。これは凄い事なのだ。心身の安定や、呼吸を整え方など、悟りの境地のような修行によって成し遂げられる技だ。芸術とは違う、職人技の固有領域だろう。

職人技と、芸術家魂、どちらも世の中になくてはならない資質だ。どちらになれるかは、遺伝子が決めているとしか言いようのない部分がある。どちらがより高度という事なく、それぞれの高みがある。芸術家魂が広げた人間の美の世界と、職人魂が支える人々の暮らしが、共に人間世界を豊かにしている。

さて、編集長はいったいどっちだ・・・・多少とも工芸もどきに関わっているわけだが、どっちの立場なのか。

同じものを二度と作らないと言えば、編集長は同じものを二度と「作れない」。作らないのでなく、作れないのだ。要するに下手くそなので、思い道理にいかずに、つくる度に寸法が違ってしまうだけだ。「全作品がオリジナル・・・」と言えば聞こえは良いが、下手でばらばらなものしか作れない。もちろん芸術でもなんてもなく、資源無駄遣いの地球温暖化の原因にしかなっていないかも知れない。

本日はろくろ作業で、山桜の木でお皿、ヒメシャラでぐい飲みをつくった。二度と同じものは作れない・・・