お勧め図書 いじめの構造2012/01/18

お勧め図書

いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか 

内藤朝雄 講談社現代新書 1984 
ISBN978-4-06-28784-2   760円

いじめ。国や社会体制の違いを超えて、あらゆる所で起きている「人類の困難」。その原因について識者達の原因論み混乱しています。今回のお勧め図書では、まず「いじめの原因論」についての矛盾を指摘しています。一部紹介すると

  ○学校の過剰な管理     ●学校秩序のゆるみ 
  ○人間関係の希薄化     ●家族関係の濃密化・愛の過剰
  ○日本文化が崩壊したから ●日本文化が残存しているから
   ・・・・・・・・・・・・

まるで正反対の要因を原因と指摘しています。そして、どれも言われれば、そんな気もしてくるから不思議です。
いじめについての「分析」、現場を緻密に取材した深い研究が足りないからです。そんな現状に対し、多くの事例を分析して、その根底にある「構造」に切り込んだ、この本は「いじめ学入門」として、多くの人に読んでもらいたい本ですると
いじめの加害者達は、罪の意識や反省などがみられません。道徳律や社会規範何か別の原理に支配されて動いているようにもみえます。著者は、これを全能を得ようとする「群生秩序」と指摘しています。群れのいきおいや「ノリ」が、すべてを支配する世界です。

これに対して、法や社会システムの世界を「普遍秩序」として、いじめの「解除キー」として、学校空間への「法システム」の適切な導入が効果的と指摘しています。近年、現場では、これはある程度、実行されてきていますが、まだ問題の囲い込みは続いていると思われます。

いじめは、個人の資質の問題ではありません。「良い子」が、学校空間のある状況におかれると「怪物」になっていく。真剣で熱意のある教師が、換えっていじめのをつくってしまう。そんな場が学校空間です。個人の資質を超えた社会のしくみ、無意識に人をうごかしていくものを社会学では「構造」とよんでいます。

識者の原因論が混乱しているのは、「構造レベル」での分析と議論がなされていないからです。この本は、いじめの「構造」として、構造レベルで物事を考えるための良い入門書になっています。

この本の後半は、社会論になっています。いじめの解消には学校の聖域化をやめて、学級システムを解消して、自由で普遍秩序のある場にすべきとの概要です。確かに、いじめは教師や子供個人が生み出すものだけではなく、学校という社会システムが生み出している事は、複数の学校現場を経験してきた者として、良く理解できます。

この本は多数の書評が書かれていますが、前半の精緻な分析は評価するものの、後半の釈迦論には異論を唱える評もあります。確かに、解除キーとしての普遍主義は有効ですが、それだけでは解決できない、「さらなる深部」が存在する事も感じます。

また提案された社会システムの改変などは、「実証」のフィルターにかけて、正しいものなのか、反証可能性をもつ社会実験ができるものか論証してみる必要もあります。

ただの子供が「怪物」に変身していじめを行う。普通のおじさんが怪物となって独善主義的な暴力機構の手先になる。・・・人は、いかに「社会構造」に呑み込まれて生きているか、気付かせてくれる書物でもあります。

著者は、いじめを、集団殺戮や戦争などの普遍的に「大きないじめ」を考察していく、一歩として学校のいじめを研究しているとしています。どう対応しても、解決にむかうどころか、さらに蔓延していく「小さないじめ」「大きないじめ」。それに対応するには、みえにくい「構造」レベルでの緻密な分析と、論理的な社会仮説の提唱と社会実験・検証を大胆にすすめていくべきです。

我々はどんなコミュニティをつくっていくべきか、構造を理解して、構造から抜け出て、深いレベルで身近な問題を考えて行く「構造入門書」として是非お読みください。 も/あ

全体知の中で・・・ ミクロコスモス研究報2011/07/10

先の論で、どこまでも自然と戦い知識を極めていく方向と、自然の中に止まる生き方を選ぶ、大きく二つの選択肢があると述べた。

原子力の安全性に問題があれば、さらに緻密な技術を繰り出して安全性を高める技術開発をしていく。使用済み核燃料をロケットで太陽に打ち込んで捨ててしまうなんて発想もある。人間の存在をどこまでも拡大していき、宇宙に広げる・・・

遺伝子をいじり、細胞分化を支配して、再生医療・・不老不死の技を身につけ、人間そものもの作り出す技術を目指す・・・人間の可能性を無限と考える人には、人々の技術に対する懐疑も、単なる勇気のなさに思う事だろう。脳天気なな人々なのだろう。

それに対して、止まるべきと考える人々もいる。宗教的信念に基づく論や、「ついていけない・・」との単純な知識不足よる不安も一部にはある。合理的な戦力的経済からシンプルライフを選ぶ人達もいる。

「ヒッピー」のような運動から、有機農業、エコロジー運動、ヒーリング、癒し系など、多様な思想的な流れがあるが、自然を方向性としているとは言える。少し悲観的・・な人達なのろうか。


どちらも最深部の論点は理解できる。しかし、どちらもヒステリックで硬直的な教条主義になりがちである。


自分は、それらを統合する「全体知」の立場である。 

生物学でも、遺伝子や細胞を実験的に扱う人達と、分類や生態学をなる人々で、どうも学の方法や知的な方向性が大きくことなっている。生態学的知・・・は、常に「全体」をみようとする。天文学も「宇宙」と言う全体を見ようとする。

原子力推進や遺伝子組み換え推進など科学者は、すべて推進派のように思われがちであるが、「限界を知る」事も科学者の任務である。いや、科学の本質は限界を知る事と懐疑する事であるはずだ。脳天気な未来志向派は、科学者と技術者の一部だろう。

人類そものも客観的な思考対象として、その生き方を科学の方法で認識していけば、人の限界がはっきりと線引きされるのではないか。

「全体知」はプラトンから始まり、無知なる知のクザヌス、空海や法然、さらに二宮金次郎まで、世界に数多くの哲学の流れがある。東洋思想は根源的に全体思考、全体知を得意としている。

部分知、分析知を出発とする科学は、もともと全体知に届きにくい。全体知としての科学、生態学的な科学は、これから開けていく知識の世界だ。

近々の社会問題や時事問題に頭がいっぱいになるのも良いが、全体知をめざし、その到達点の高みから、再度問題を俯瞰するのが問題整理と解決への近道だと思う。


原子力やエネルギーの問題は、「持続可能性」という理念のなかで議論して解決をみていく課題である。

臓器移植や遺伝子に関する難題は、「生物多様性」と言う課題の中で議論して解決していくべきものだ。

持続可能性は生物多様性の中の一部の理念体系である。ここで言う生物多様性の理念は、国際的な定義とは違うが、宇宙の歴史と生物の歴史を俯瞰して出てくる人類の存在を客観的に捉えた時の認識である。

宇宙の中で、地球が誕生して、生命が出来て、この眼前の風景ができた事を認識する時の想いが全体知としての生物多様性理念であると論者は考えている。

そこがはっきり定まり、人々に共有されれば、これからみんなで何をすべきなのかはっきりするだろう。

最初に述べた二つの方向性に分かれてしまう事、そのものが人類の知恵が、まだ不足している証拠なのだろう。

身近な自然をきっちりと見つめれば、答が出てくる筈だ。


も/あ

「人類のふたつの方向」 ミクロコスモス研究報2011/07/10

臓器移植の問題、クローン生物、原子力の問題、ダムの問題・・・人々がいくら議論しても結論がでずに、平行線をたどるような問題がある。

生物倫理学や、安全性論、科学技術論など、専門家が論陣をはっても更に複雑になるだけで答が出ない。

これら問題はつきつめていけば、人類全体に答を要求されるるひとつの課題に付き詰まるのではないか。

人類は自然の存在としてとどまるか、無限に知識と技術を拡大して自然と闘っていくか・・このふたつからのの選択である。

幹細胞利用、臓器移植、クローン生物・・・細胞分化のコントロールの技術は究極的には死なない命、不老不死への人類の挑戦となってく。

原子力技術は不完全である。宇宙技術でも海洋開発でも、先端技術は、もともと挑戦的な危ない人類の「遊技」である。遊技の提唱者は科学者や文学者、映画作家達だろう。そのような遊技の提案に乗せられて懸命になって仕事をしているのが、推進派技術者達、経営者達、政治家達である。

その遊技集団は、先に進む事が唯一の根源的な欲求に突き動かされている。先に進んで、問題が生じれば、それを解決するには後ろ戻りするのではなく、さらに先に進んで解決策をみつけていく。

自動車を発明したが、事故や、騒音やら、排気ガスやら問題がでてきた。その度に、バックミラーをつけたり、処理装置を開発したり、新技術で解決してきた。文明を拒否するという選択は、この集団にはありえない。

それに対して、それらを拒否する方向性をもつ人々がいる。どちらかと言うと精神主義、文明拒否の気分をもち、宗教的信条をともなっている事が多い。

臓器移植やクローン、人工中絶などに反対して、「自然のまま」「神の摂理・・」などを選び取ろうとする。生命の尊厳といった理論構成で、先に進む事ではなく、「とどまろう」とする。

原子力に反対すれば、究極的には、どこかで「便利な暮らし」「近代的なライフスタイル」を拒否せざるを得ない。臓器移植や幹細胞利用医学などを拒否すれば、「自然な死」を受け入れざるを得ない。

人類の可能性を無限とみて、永遠に挑戦を続けるか、有限な存在として、謙虚にいきるかの選択と言う事になる。これは、もう宗教的信条の世界である。

こんな議論も「究極」での話で、通常の世界は、これらが薄められて、ごたまぜに議論されているのだろう。

最初に上げた困難な問題を議論する事になったら、一度はこの究極の論点に登り詰めて、それから細かい議論をしてみてもらいたい。議論が整理される筈だ。

「で、論者はどちらの派か」と聞かれれば、「自分は、その議論を統一的に解決する派だ。」と答える事になる。その部分については別論で説明したい。

も/あ