【対の諺】 明鏡止水 鑢濁流2015/06/25

【対の諺】 明鏡止水 鑢濁流
 
(正)   明鏡止水
(意味)  曇りのない鏡と動かず平らな水。一切の邪念を断ち切って妄念のない清らかな心。悟りの境地。
(反) 鑢濁流
 
(意味) 鑢(やすり)と濁って激しく流れる水。鑢は自らは凹凸だが、他を磨いて平らかにする。濁流は自らは濁って止まらないが、大地を削り、下流に恵みをいつかもたらす。
 
(正)の言葉に対して、聖人君子・悟りの人は自ら閉じて安息しているが世の中には何の役にも立てない。それよりも、自らはとけとげしくても、また汚れていても、他を削り、磨き、清らかにするとのが道であるとの例え。
 
老荘思想や南伝仏教に対する北伝仏教の立場を示している。個人の悟りや完成を究極とするのに対して、悟ったものは、そこから返して汚濁の衆生のために、自ら汚れとなっても救いの道を歩む「菩薩業」が仏の本道との立場。

全体から考える 唯識論より2013/09/18

人間は誤り、悩み、間違いをおかす。それは、ものごとをばらばらに見て、ばらばらに行動するからである。他人の存在を考えず、自分の事だけ、仲間の事だけ考えれば、小は喧嘩から、大は国際紛争までひきおこす。思考が分断して、とぎれとぎれになれば、正しく考える事ができずに誤りや悩みの中に苦しむ。

そんなばらばらのままの状態を唯識では「偏計所執性」(へんげしょしゅうじょう)と言う。なんの繋がりもなく、人々がばらばらに勝手に好きな事をしている無政府状態のような世界である。

人は、成長にしたがい、ものの「つながり」をみつけていく。原因と結果が結びつけていく。盗めば、罰を受け、思いやりをかければ、恩を受ける・・・「あれがあれば、これがある」・・因果応報の世界を経験して社会性を獲得していく。つながりを見つけて、求めていく世界、思考法を唯識では「衣他起性」(えたきしょう)と呼んでいる。

最近は、何と何のコラボレーションとか言って、分野をこえて交流する事が流行っている。また、絆や連携とか協働と言った言葉で、様々な主体が共に事業を行う事なども盛んである。海・山・川の連携学とか、既存学問を組み合わせたり情報交換をする事も熱心に行われている。・・・でも、唯識からすれば、これらはすべて「迷妄」である。

つながりを考える事は、分断された存在を所与のものとする前提がある。悟りの世界からすれば、世界はひとつで円成な存在であるから、つながりを求める事自体が迷妄そのものなのである。行政と市民の協働とか、公と民の連携とか聞こえは良いが、公務員という身分を保守する前提、民間企業の論理を頑なに維持する前提の上で繋がりをもとめようとする。もともと行政の市民も、おなじ人という根源状態から、適宜に必用に応じて仕事を分任して来たに過ぎない。協働そものが、迷妄の上塗りなのである。

クラシック音楽と、日本音楽のコラボレーションとか、何と何のフュージョンとか、異業種の芸術ジャンルの共演が流行で、なにか新しいものを生み出しているような錯覚に陥っているようであるが、もともと音楽に区切りなどない。音をだして何かをするという単純な共通性からは、もともと「なんでもあり」が芸術の筈である。

協働や共演によって新しいものが創造されていくなら、分断された存在は本来消滅していくものだ。長い芸術の歴史の中では、何かと何かが出会って新しいジャンルができ、その前のものは発展的消滅して来た。振り返ってみれば、すべてはもともとひとつ・・なのである。

このような、「もともとひとつ」、ひとつの根源から物事を辿り直す思考を唯識ては「円性実性」と呼んでいる。たったひとりの未分化な人間社会から、大きくなるにしたがい、だんだんに専門が別れ、知識が増えて学問分野が分けられてきた筈だ。音を出す・・そして楽しんだり、何かに用いたりする曖昧な世界から、だんだんと技能が洗練されジャンル化されてきた。哲学や宗教や技能から始まった知識活動が「学問」として細分されてきた。あまりに分断が進んで、根源をまるで忘れてしまうようになった。そしてあらゆる迷妄が生まれてきた。下社会問題の大半は、そんな迷妄の枝葉に過ぎない。

現代の知性の流行は、どうも「衣他起性」の世界で進んでいる。政治も、学問も、芸術も、人々の暮らしも、つながりを求める事に熱中して、壮大な迷妄に陥っている。衣他起性の世界から、円性実性世界へのシフトは、「悟り」そのものであるとされるので、そうたやすい事ではないのだろう。論者のように、悟りの世界からは遠い存在には、円性実性の世界は、理屈の上でふと垣間見るだけの世界だが、知識の方法として採用する事はできる。

円性実性の世界から、物事を見たであろう思想家は少なくない。自分の知っている範囲でも、ルネッサンス期キリスト教哲学者の「ニコラウス・クザーヌス」やの三才報徳金毛録にみられる「二宮金治郎」や、安藤昌益など
を紹介する事ができる。いずれも円の思想からはじまる世界を全体として捉える絶対的な立場に到達している。しかし、その弟子や後継者などは、残念ながら、その円性実性の世界を理解しきれていないらしく、衣他起性の思考でそれを理解してしまっている。

21世紀は、唯識の世紀だ・・とか吹聴する研究者もいるが、全体思考が世紀の難問を解決するだろうとの思いからすれば、誇大妄想でもないだろう。戦争、いじめ、差別、格差、貧困・・あらゆる社会問題を解いていくだう基礎的思考が円性実性、全体思考である。それだけ、人々が偏計所執性の世界で苦しみ、衣他起性の世界で無駄を繰り返していると言う事だろう。唯識論には、それだけの価値はある。他の全体思考の哲学も同様だ。

円性実性の思考が、有効に働くのは、環境学や、福祉、教育、社会問題などの分野だろう。老人福祉と子どもの福祉が連携して・・・と実行してみれば、ただの昔の社会で普通に行われていた事。海と山をつないで、環境活動を進めれば、塔達するのは昔の普通の自然の姿だ。

不生不滅 不増不減 ・・・否定の哲学、大乗仏教の哲学がみつめる先は、円性実性の悟りの世界である。唯識の哲学は複雑で重層的だが、エッセンスとして、円性実性の世界と、その前段階のふたつの世界のありようだけでも、思考の方法論としてもってもらいたい。

自分が人の話すと、多くの人とどこかで対話が途切れてしまうが、円性実性の世界から物事を出発できるかどうかの違いかも知れない。ぜひ、唯識論のエッセンスを学んで、全体思考を身につけて、世の難問を解決する仕事をしてもらいたいと思う。

クザヌスや金次郎の全体思考については、また別に解説したい。

花をきれいだと思う気持ちが美しいのだ・・・2013/05/28

【言葉の深層】 花をきれいだと思う気持ちが美しいのだ・・・

「花を美しいと思う気持ちが美しい・・」そんな意味の言葉が歌になったりする。

花は美しくあるために咲いている訳ではない。自身が生きるため、さらに根本的には物質の集合体である生物の反応過程だ。

「花を美しいと思う気持ちが美しい・・」と言う事は、花に美醜はないが、観察者である人間が美を押しつけていると言う事だ。それが美しいと言っているのだから、美は人間の自己陶酔に過ぎない。

美とは恐ろしいものである。脳が肥大化してしまった人類だけが罹患している病かも知れない。ソメイヨシノに群がり、派手な花を育種して写真に撮り違いにほめ合う。

猫や犬を奇形の領域まで育種して、人間の仕草に近い姿をさせて写真にとって「かわいい」とか言い合い話題にする。美と言う病をもつ人間は、不自然な事や自然改変をしていかなければ、自身の精神を安定させる事ができないのだろう。

美と言う病から抜け出るには、「知る」方向に精神を向かわせるしかない。より客観的に知ろうとすれば、美は少しずつ後退していく。美の視点から外れるような目立たない植物の存在と意義に平等に気づいていく。そして、美がどれほど生きもの達を阻害して、生きる環境を損なっているか気づくだろう。

花を美しいと思う気持ちが恐ろしい・・・・これが言葉の深層だろう。

理解力のフィルター 限界2012/08/22

馬鹿の壁」と言うあられもない書名の本が養老孟司さんにあった。喧嘩になりそうな言い方なので、自分は「理解力のフィルター」「知的範囲の限界」とか呼んでいる。

養老さんの書物は、自分の理解力の限界を超えたものを、人は馬鹿だと思う・・そんな趣旨だった。知的範囲の限界を超えたものを、人は敵視するか、拒否するか、無視するか、そもそも感じ取る事すら出来ない。そして、理解力の限界はフィルターの網目となって、知識が移動していく事を妨げる。

「理解力の限界」と言う概念を使うと、身近な事を良く理解できる。ちっとも進まない議論、繰り返しばかりの会議、いくら言っても何も出来ない行政、暖簾に腕押しの人物・・・。大きな所では、いじめ、縦割り行政、国際間紛争、差別、魔女狩り・・・理解力の限界・境界付近で様々な事がおきている。

第三者として、かみあわない議論や紛争をみていれば、理解力の限界を冷静に観察もできるが、この限界ばかりは自己認識がきわめて困難なので、個として限界の外に出ることはほぼ不可能だ。

「ちっとも分かってくれないな・・」「こりゃ、駄目だ・・」、「話にならない・・」、そんな言葉で、理解力の限界からは遠ざかるしかないのだろうか。喧嘩にならない範囲で、理解力の限界どうしは、ある程度引き離しておくのも戦略ではある。

「理解力を高めるしかない、それは教育だ。広報だ。」理解力向上戦略の名のもとに、様々な教育・・・学校教育から、種々のキャンペーン、布教、洗脳まで、様々な名の下に知的範囲拡大作戦は繰り広げられる。しかし、これも広い視点でみれば、知識の境界線づくりに荷担してしまう。

理解力を向上させるには・・・知識を増やしても効果はあまりない。知恵とでもいうべき思考方法の構造破壊・脱構築・・でもするとかないのだろう。若い頃にとても難解な哲学書を開いてみたり、現代音楽を無理矢理聞き込んでみたり・・理解できないものに挑戦する時期が誰にもある。そんな時が、限界に挑んでいる時なのだろうか。

年齢・世代、民族・国家、職業・専門、経験・感性、・・・それらは、どんな「壁・限界」によって成立していくのだろう。限界・壁を崩壊させる方法はあるのか・・。

「知識単位学」と言う学問をつくろうと思っている。ライフワークなのかも知れない。知識の限界によって構成される様々な「知識単位」を示していくのは、初めに書いた、様々な社会問題を解決していくために有効だろう・・そんな思いもある。

自分はどんな理解力の限界をもつか、理解力のフィルターで何をこし分けているか。時々反省して見ると良い。FBのコメントなど観察するのも、理解力のフィルターを研究するには、とても良い材料だ。

理解力の限界を少しでも破壊するには、どうしたら良いか・・あまり方策はない。「諦めない事」くらいなのでろうか。

ここまで、読んで頂けた方の理解力に感謝するとともに、さらに高い理解力の持ち主に限界を教えてもらいたいとも思う。

編集長

「はずし」と「はぶき」2012/04/04

ミクロコスモスマガジン  再掲


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  ミクロコスモス話し方教室
  「はずし」と「はぶき」
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ミクロコスモス 話し方教室です。

余計なお世話って言いたくなる質問ってありますよね。

  Q まだ、結婚しないの。
  Q 子供はまだ。
  Q お子様、どこの高校にはいられたの ?
  Q 就職決まった ?

  Q お墓、買った ?

    ・・・・・

「あたな、他人の履歴書でも作っているの。」とか訊きたくなります。こういう事訊く人は、世の中には、いろいろな境遇の人がいる事忘れてます。

誕生、入学、結婚、出産、死・・人生の節目節目に対して、それぞれ「余計なお世話」「定型質問」が用意されているようです。

 【余計なお世話撃退法】

この種の「余計なお世話」を撃退するには、次のような答え方があります。

  Q いつ結婚するの ?
  A そいいう風に聞かれなくなった頃。

    ・・・・・・・・


  Q 大きくなったら何になる。
  A 同じ事ばっかり訊いたりしない大人になる。

    ・・・・・・・・


  Q 子供は何グラムでうまれたの ?
  A あなた今体重はどの位 ?

    ・・・・・・・・


  Q どこの国から来ました。
  A 地球です。

    ・・・・・・・・


  Q UFO信じる ?
  A ワタシ アンドロメダ星雲カラキマシタ。
      シンジテクダサイ。

    ・・・・・・・・


「ボケとつっこみ」のようにも見えますが、むしろ「はずし」とでも言うのでしょうか。余計なお世話を、さっと「かわして」それから「はずし」ます。まあ、はずしてしまうと、以後、会話は停止するかとは思いますが。

だいたい、このような「定型的」な質問ってのは、お天気を訊くのと同じように、以後の会話の糸口とも考えられる面もあります。聞き手が、いつもそんな作文能力が高いとは限りませんから、あまりいじめても気の毒かも。

 やんわり、はずして、さらに以後の会話を続けるには、会話をワンステップとばして、「省き」をします。A ははずし、R ははずしの結果得られるだろう良いレスポンスです。


例1
  Q 子供は何グラムでうまれたの ?

  A お医者さんが言ってたけど、忘れちゃった。
    でも抱いてみると子供っておもいのね。

  R 大変な時は、手伝うからね。


例2   
  Q どこの国から来ました。

  A ああ、コーヒー豆のたくさんとれる所です。
 
  R そう。まあコーヒーないけど、お茶でも飲んでいって。


例3
  Q 子供はまだ ?

  A 誰でも、世界中の子供達のために出来る事あるわよね。

  R あたし達の保育所、たまに手伝いに来てね。


 「余計な事訊くな・・」なんていう険悪な途中の会話が省略されていますね。子供の体重とか国名なんてのは医師とか役所の人だけ知っていれば良いのかもしれません。はずしと、はぶきが併用されています。

人生の達人になると、大量の「はぶき」をして、能率的な会話になります。


  Q 人生、谷あり、山あり。どうだ ?

  A 山にて、世にたちて、谷にありて、力足らず。

  R そうか、手伝おう。


「はぶき」が過ぎると、こうなります。

  Q いかに ?

  A うむっ。

  R ぬぬっ。


訳がわかりませんが、当事者どうしでは、一万言の対話をしているのでしょう。禅問答の世界は「はぶき」の究極なんでしょうか。

まあ、とにかく、定型的な会話から脱して、より能率的に、より深く、より広く対話をすることにしましょう。とにかく、創造的なな作文能力が必要です。

                            Y

【編集長の蛇足】

世界に冠たるイギリスには「ユーモア」の会話が、文化の華たるフランスには「エスプリ」があります。大阪には「ボケとつっこみ」があります。それぞれの地方に、それぞれの会話文化がある筈です。

さて、関東の会話の精神は ? 「はずし」でも採用しますか・・・

夢に追いかけられる人生2011/12/23

今日の言葉

 夢を追いかける人生はむなしい。
  夢に追いかけられる人生は好ましい。
   夢と現実と言う区分が無い人生は最上だ。

蛇足的説明

個人の夢は奇抜で小さく世間からはずれがちです。「夢を追いかけろ〜」と言って活動的な人、ちょっと魅力はありますが、結果はどうだか。「夢見る政治家の空公約・・。 夢見る企業家の赤字倒産・・・・・てなのが多い気も・・夢は個人の一時のもの・・・夢を追いかける人生は虚しい気がします。

「夢からは逃げなさい。逃げて、逃げきって、見える現実や、緻密な論理が人生を確実にする。」・・・そんな事を言われた事もあります。

でも、逃げて、逃げても追いかけてくる夢ってのあるものです。拒否しても、その夢に働かされてしまう。夢の方に力があって、持続する。夢が人を選んで働かせる。大きな仕事をした偉人達は、どうも夢に選ばれ、夢に働かされ、夢を人の世のものにした・・そんな気がします。

夢に追いかけられる人になりたいですね。

夢を追いかける人生が 3番、夢に追いかけられる人生が2番・・だとしたら、1番は夢と現実と言う区分かない人生が本当は最高ですね。夢見る動物、人間には不可能かも・・・時間を超越しないといけないから・・・

きっと違っている2011/11/29

    きっと違っている



 世の中議論が多い
 賛成とか反対とか

 世の中、話が多い
 未来を語るとかなんとか

 きっと、違っている
 多分、みんな違っている

 もくもくと今日と明日の食べ物を作っている
 何も言わずに寒さをよける
 生きていられるなら何もしない

 そんなのが良い


蛇足

 近頃、シンポジウムとか、なんとか会議とか、なんとかフォーラムとか、やたら多いですね。  なんだか無駄そうです。

議論や会議で世界は動かない。余計な事をしない事を訴えるのに余計な事したら何だかおかしい。

しずかなのが良い・・・

凄い2011/09/16

今日の詩

 「凄い」

  凄い
  凄い
  凄い

 なんだか分からないけど
  凄い

 凄い
 凄い
 凄い

 どこだか分からないけど
  凄い

 凄い
 凄い
 凄い

どうしてだか分からないけど
凄い

 凄い
 凄い
 凄い

 どの位か分からないけど
  凄い

 凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、
 凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、
 凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、凄い、
 凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い
 凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い凄い

 凄い位凄い
 凄いところが凄い
 凄く凄く凄い・・・
 凄いが凄い

 凄く凄い・・・

編集長の蛇足

 良い文章を書くには、形容詞や副詞を使わないで書くと良い・・と言います。

人を動かすのは、何と言っても事実。いつ、どこで、誰が、どの程度・・それを実態にもとづいた資料をもとに書くのが役に立つ文章。

感動させる・・・それはどうも、良い文章の理念とは違うようです。名詞や動詞は使わないで、「凄い」とか「美しい」とか「とても」とか「真の」とか、修飾語の方が感情に訴えるようです。

その人の書く文章の 「名詞・動詞」対「形容詞・副詞」 の比率を計算したら、「事実度指数」あるいは「空虚度指数」が計測できるかも知れません。

事実度指数の低い人には、余り近づかない方が良いかも知れません。


蛇足の爪の垢

 この文章の事実度指数はかなり低くて、あまり読んでも役にたたない種類のものです・・・・