全体知の中で・・・ ミクロコスモス研究報2011/07/10

先の論で、どこまでも自然と戦い知識を極めていく方向と、自然の中に止まる生き方を選ぶ、大きく二つの選択肢があると述べた。

原子力の安全性に問題があれば、さらに緻密な技術を繰り出して安全性を高める技術開発をしていく。使用済み核燃料をロケットで太陽に打ち込んで捨ててしまうなんて発想もある。人間の存在をどこまでも拡大していき、宇宙に広げる・・・

遺伝子をいじり、細胞分化を支配して、再生医療・・不老不死の技を身につけ、人間そものもの作り出す技術を目指す・・・人間の可能性を無限と考える人には、人々の技術に対する懐疑も、単なる勇気のなさに思う事だろう。脳天気なな人々なのだろう。

それに対して、止まるべきと考える人々もいる。宗教的信念に基づく論や、「ついていけない・・」との単純な知識不足よる不安も一部にはある。合理的な戦力的経済からシンプルライフを選ぶ人達もいる。

「ヒッピー」のような運動から、有機農業、エコロジー運動、ヒーリング、癒し系など、多様な思想的な流れがあるが、自然を方向性としているとは言える。少し悲観的・・な人達なのろうか。


どちらも最深部の論点は理解できる。しかし、どちらもヒステリックで硬直的な教条主義になりがちである。


自分は、それらを統合する「全体知」の立場である。 

生物学でも、遺伝子や細胞を実験的に扱う人達と、分類や生態学をなる人々で、どうも学の方法や知的な方向性が大きくことなっている。生態学的知・・・は、常に「全体」をみようとする。天文学も「宇宙」と言う全体を見ようとする。

原子力推進や遺伝子組み換え推進など科学者は、すべて推進派のように思われがちであるが、「限界を知る」事も科学者の任務である。いや、科学の本質は限界を知る事と懐疑する事であるはずだ。脳天気な未来志向派は、科学者と技術者の一部だろう。

人類そものも客観的な思考対象として、その生き方を科学の方法で認識していけば、人の限界がはっきりと線引きされるのではないか。

「全体知」はプラトンから始まり、無知なる知のクザヌス、空海や法然、さらに二宮金次郎まで、世界に数多くの哲学の流れがある。東洋思想は根源的に全体思考、全体知を得意としている。

部分知、分析知を出発とする科学は、もともと全体知に届きにくい。全体知としての科学、生態学的な科学は、これから開けていく知識の世界だ。

近々の社会問題や時事問題に頭がいっぱいになるのも良いが、全体知をめざし、その到達点の高みから、再度問題を俯瞰するのが問題整理と解決への近道だと思う。


原子力やエネルギーの問題は、「持続可能性」という理念のなかで議論して解決をみていく課題である。

臓器移植や遺伝子に関する難題は、「生物多様性」と言う課題の中で議論して解決していくべきものだ。

持続可能性は生物多様性の中の一部の理念体系である。ここで言う生物多様性の理念は、国際的な定義とは違うが、宇宙の歴史と生物の歴史を俯瞰して出てくる人類の存在を客観的に捉えた時の認識である。

宇宙の中で、地球が誕生して、生命が出来て、この眼前の風景ができた事を認識する時の想いが全体知としての生物多様性理念であると論者は考えている。

そこがはっきり定まり、人々に共有されれば、これからみんなで何をすべきなのかはっきりするだろう。

最初に述べた二つの方向性に分かれてしまう事、そのものが人類の知恵が、まだ不足している証拠なのだろう。

身近な自然をきっちりと見つめれば、答が出てくる筈だ。


も/あ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://microcosmos.asablo.jp/blog/2011/07/10/5950166/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。