「人類のふたつの方向」 ミクロコスモス研究報2011/07/10

臓器移植の問題、クローン生物、原子力の問題、ダムの問題・・・人々がいくら議論しても結論がでずに、平行線をたどるような問題がある。

生物倫理学や、安全性論、科学技術論など、専門家が論陣をはっても更に複雑になるだけで答が出ない。

これら問題はつきつめていけば、人類全体に答を要求されるるひとつの課題に付き詰まるのではないか。

人類は自然の存在としてとどまるか、無限に知識と技術を拡大して自然と闘っていくか・・このふたつからのの選択である。

幹細胞利用、臓器移植、クローン生物・・・細胞分化のコントロールの技術は究極的には死なない命、不老不死への人類の挑戦となってく。

原子力技術は不完全である。宇宙技術でも海洋開発でも、先端技術は、もともと挑戦的な危ない人類の「遊技」である。遊技の提唱者は科学者や文学者、映画作家達だろう。そのような遊技の提案に乗せられて懸命になって仕事をしているのが、推進派技術者達、経営者達、政治家達である。

その遊技集団は、先に進む事が唯一の根源的な欲求に突き動かされている。先に進んで、問題が生じれば、それを解決するには後ろ戻りするのではなく、さらに先に進んで解決策をみつけていく。

自動車を発明したが、事故や、騒音やら、排気ガスやら問題がでてきた。その度に、バックミラーをつけたり、処理装置を開発したり、新技術で解決してきた。文明を拒否するという選択は、この集団にはありえない。

それに対して、それらを拒否する方向性をもつ人々がいる。どちらかと言うと精神主義、文明拒否の気分をもち、宗教的信条をともなっている事が多い。

臓器移植やクローン、人工中絶などに反対して、「自然のまま」「神の摂理・・」などを選び取ろうとする。生命の尊厳といった理論構成で、先に進む事ではなく、「とどまろう」とする。

原子力に反対すれば、究極的には、どこかで「便利な暮らし」「近代的なライフスタイル」を拒否せざるを得ない。臓器移植や幹細胞利用医学などを拒否すれば、「自然な死」を受け入れざるを得ない。

人類の可能性を無限とみて、永遠に挑戦を続けるか、有限な存在として、謙虚にいきるかの選択と言う事になる。これは、もう宗教的信条の世界である。

こんな議論も「究極」での話で、通常の世界は、これらが薄められて、ごたまぜに議論されているのだろう。

最初に上げた困難な問題を議論する事になったら、一度はこの究極の論点に登り詰めて、それから細かい議論をしてみてもらいたい。議論が整理される筈だ。

「で、論者はどちらの派か」と聞かれれば、「自分は、その議論を統一的に解決する派だ。」と答える事になる。その部分については別論で説明したい。

も/あ

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