紅葉2009/12/01

山を光が歩いていく
紅葉がそれを数えていく
私は、それを・・・


ゆれる紅葉
ひとときの光のかけら
私には言葉のかけらも用意できない


あ/も

時系列型と座標配置型2009/12/18

へちがら

時系列型と座標配置型

 ブログは、日記が原型だ。毎日の出来事や思いを、「その日の事は、その日に書く」のが日記で、それに電子的な公開機能を足したものがブログなのだろう。

その日の事をその日に書けない自分には、ブログは自分にはあまりあっていない。その日の事をその日に処理する能力があまりないからだ。毎日小遣い帳をつけるなんて事は子供時代に教育されなかったので、まるで習慣にない。

自分は、どうも頭が「座標配置型」になっているようだ。時系列は無視して、それが「体系」の中にどう分類されるかで、すべて物事を配置する。何時、何処で、買い物をしたか忘れてしまうが、費用項目に分けていくのは得意だ。仕事も、同時並行にいくつものタスクをこなしていくのが得意だ。

そのせいで、やり残しの仕事が山積みになり机は乱雑になる。ある時点で、いくつもの仕事が、どっと同時に完成する。

歴史型、時系列型の人とは、どうも合わない。歴史や、いきさつを大切にする時系列型の人は、同時並行にものを考えないようだ。過去と未来の直線に物事を配列して、それで思考する。地理型、座標配列型の人間と時系列型の人間は、時々深い溝を感じたりする。

ブログは、思いが時系列に並ぶ事になるが、どうも書きにくい。時々、かなり昔の事が今日の出来事のように書きたくなったりする。反対に今日の出来事でも、書くには思いが何もない事も多い。

座標配置型の編集長がブログを使っているが、どうも合わない。まあ、日付は無視して、順番も無視してブログを見て欲しい。

※ 「へちがら」とはへんしゅうちょうのがらくたばこ の略です。編集長 森谷昭一の 個人的な がらくた記事です。

職人と芸術家の違い2009/12/23

へちがら

   職人と芸術家の違い

「工芸作家」と呼ばれる「芸術家」と、「工人」「技能者」などの呼び方をする「職人」とはどこが違うのだろう。

「工房」をもって「先生」と呼ばれて○○会審査員とか肩書きがつく偉い人を「作家」と呼ぶのだろうか。お金をもうけるために工芸を職業とする人を職人と呼ぶのだろうか。

作品に作者の名前がつくのが「作家」で、無名で製品を出すのが「職人」なのだろうか。どうも、そんな些末な違いではなく、本質的な違いがある。

同じ物を二度と作らないのが作家、つまり芸術家だ。

正確に同じ物をいくつでもつくれるのが職人、つまり技術者だ。

自分はそのように定義している。

芸術家は創造が本質だから、同じ物を二度とつくってはいけない。まったく同じ絵を二枚描いた絵画の巨匠はあまりいない。それは弟子なり、贋作作り手がやる事だ。

芸術家の創作のエネルギーはいつも新しい物作りに向けられる。同じ事を繰り返せば、マンネリ化したとか批判される。展覧会をやって、「去年とあまり同じですね・・」とか言われたら作家失格と言う事になる。

職人は、反対だ。お皿を100個注文されたら、正確に同じものをつくらないといけない。微妙な違いは別としても、食器売り場で特定の目的の器を買う度に大きさが違っていては、使い手が困る。
商品は斉一性が求められる。納期に間に合わせて、きちんと完成させるのも職人の技のうちだ。

どちらが難しいか。実は、どちらも同じように難しい。創造的な作品のためには限りなく試作を繰り返す必要がある。創意工夫のめにに心身を削って打ち込むのが芸術家だろう。

同じ物をつくる職人は、それに較べて気楽だろう・・と思ったら大間違いで、同じ物を二つつくるには、また別の神経をすり減らす作業が控えている。例えば、木工でも陶芸でも「ろくろ」作業には、あまり物差しが使えない。

職人の勘だけで、正確に同じ寸法のものを作る。これは凄い事なのだ。心身の安定や、呼吸を整え方など、悟りの境地のような修行によって成し遂げられる技だ。芸術とは違う、職人技の固有領域だろう。

職人技と、芸術家魂、どちらも世の中になくてはならない資質だ。どちらになれるかは、遺伝子が決めているとしか言いようのない部分がある。どちらがより高度という事なく、それぞれの高みがある。芸術家魂が広げた人間の美の世界と、職人魂が支える人々の暮らしが、共に人間世界を豊かにしている。

さて、編集長はいったいどっちだ・・・・多少とも工芸もどきに関わっているわけだが、どっちの立場なのか。

同じものを二度と作らないと言えば、編集長は同じものを二度と「作れない」。作らないのでなく、作れないのだ。要するに下手くそなので、思い道理にいかずに、つくる度に寸法が違ってしまうだけだ。「全作品がオリジナル・・・」と言えば聞こえは良いが、下手でばらばらなものしか作れない。もちろん芸術でもなんてもなく、資源無駄遣いの地球温暖化の原因にしかなっていないかも知れない。

本日はろくろ作業で、山桜の木でお皿、ヒメシャラでぐい飲みをつくった。二度と同じものは作れない・・・

ストーブ破壊と運命の糸・2009/12/30

へちがら 編集長の大失敗

ストーブ破壊と運命の糸・・・


だぶだぶのズボンがいけなかった。石油ストーブを一台破壊してしまった。


台所の石油ストーブ。狭いのがいけないのだが、側を通ったら、なにやらひきつる感じがした直後、がしゃ〜ん・・・と巨大な音とともに、ガラスがとびちり、鉄の格子が引き曲がりって飛び出し、芯の所がころころっと転げ出した。


一瞬の出来事で、石油ストーブは完全に破壊されてしまった。古いので、部品調達も困難そうだ。困った。


そもそも、足の長さより長いズボンなどはいたのが間違い。もともと寸法違いで購入して、直しも面倒なままはき続け、タンスの奥にしまわれていたのを、どういうわけか排他のがいけない。


だぶだぶの「余り贅肉(布)」に、ストーブの格子の出っ張りが引っかかり、ひきずられて曲がり、それがストーブの芯の部分を引きずりだした。そのまま、飛び出して、床に落ちて、ガラスが がっちゃあ〜ん・・・もう使えない・・・


こんなにも簡単に、些細な原因で、一大事か起きる事に、偶然と運命の関係について、一時深く哲学的思考に入ってしまった程である。


火がついていなかったのが幸い。火がついていたら、もしかしたら、一軒全焼、焼死体が一体・・・可能性はない事もない。そもそも、大事件などは、些細な偶然からおこるものなのだ。だいたい、数年前にズボンの丈を間違えてかったのがいけない。そこから運命は始まっていた・・・・

簡単に言えば、世の中、いつ、何が起きるかわからない。「備えよ常に・・・」関係ないか。


ストーブがなくて寒い中、これを書いている。

※ へちがら とは、編集長のがらくた箱の略称です。過去のへちがら記事は下記から。

http://www.ne.jp/asahi/micro/cosmos/bn/mook/hetiga/hedex.html

月のお終いのご挨拶2009/12/31

月のお終いのご挨拶 12月 編集長

12月と言うとクリスマス、忘年会、仕事おさめ、大晦日の様々な行事・・・、様々に忙しく、にぎやかにおこなわれます。

でも、12月に山を、野原を、海をみると、その静寂でかつ力強いな世界に心打たれます。自然は、何も語らずにひたすら、これから来る厳しい季節を受け止めようとしています。

こんな寂しい、こんな静寂な世界に耐えきれず、きっと、人々は様々な祭りを仕立てて、寄り添い、暖めあい活気を保とうとするのかも知れません。

人の定めた暦という構造の外に立ち、ふと一時、自然の厳しい静けさを感じてみませんか。

年の祭りの祈りの時、ふと冷たい空や海や雪を頂く高山の姿を見てみましょう。12月の姿があります。そして、それは1月へ続く姿でもあります。

人の世は、この12月をもって1月に戻ります。自然の暦はいつ切り替わるのでしょうか。

生き物の季節の代謝の、もっともレベルの下がった瞬間に、次の春への代謝活動の始まる瞬間があるはずです。

きっと、それが、それぞれの生き物の暦の切り替わり。

ひとつひとつ、場所場所で違う、生き物の暦の切り替わりを、感じつつ、春への備えを、自らの体内で、はじめられる・・・そんな季節です。

とりあえず、人の暦の挨拶をしないといけません。でも、本当は生き物の季節への挨拶を、常にして行きたい。

そんな矛盾した、月の終わり、年の終わりのご挨拶です。

常にかわらず、身の回りの生き物ひとつひとつの暦をみつめていきたいですね。


12月最後の日   

ミクロコスモス編集長 森谷昭一

 ※ ミクロコスモス出版恒例の 編集長の「月のお終いのご挨拶」です。いつも、意味不明の譫言みたいな文章をかくのが、月一度の編集長のお仕事です。

過去のミクロコスモスのご挨拶は下記に

http://www.ne.jp/asahi/micro/cosmos/bn/bunyaindex1.html

分野別索引の「ご挨拶・編集後記」よりご覧ください。