全体から考える 唯識論より2013/09/18

人間は誤り、悩み、間違いをおかす。それは、ものごとをばらばらに見て、ばらばらに行動するからである。他人の存在を考えず、自分の事だけ、仲間の事だけ考えれば、小は喧嘩から、大は国際紛争までひきおこす。思考が分断して、とぎれとぎれになれば、正しく考える事ができずに誤りや悩みの中に苦しむ。

そんなばらばらのままの状態を唯識では「偏計所執性」(へんげしょしゅうじょう)と言う。なんの繋がりもなく、人々がばらばらに勝手に好きな事をしている無政府状態のような世界である。

人は、成長にしたがい、ものの「つながり」をみつけていく。原因と結果が結びつけていく。盗めば、罰を受け、思いやりをかければ、恩を受ける・・・「あれがあれば、これがある」・・因果応報の世界を経験して社会性を獲得していく。つながりを見つけて、求めていく世界、思考法を唯識では「衣他起性」(えたきしょう)と呼んでいる。

最近は、何と何のコラボレーションとか言って、分野をこえて交流する事が流行っている。また、絆や連携とか協働と言った言葉で、様々な主体が共に事業を行う事なども盛んである。海・山・川の連携学とか、既存学問を組み合わせたり情報交換をする事も熱心に行われている。・・・でも、唯識からすれば、これらはすべて「迷妄」である。

つながりを考える事は、分断された存在を所与のものとする前提がある。悟りの世界からすれば、世界はひとつで円成な存在であるから、つながりを求める事自体が迷妄そのものなのである。行政と市民の協働とか、公と民の連携とか聞こえは良いが、公務員という身分を保守する前提、民間企業の論理を頑なに維持する前提の上で繋がりをもとめようとする。もともと行政の市民も、おなじ人という根源状態から、適宜に必用に応じて仕事を分任して来たに過ぎない。協働そものが、迷妄の上塗りなのである。

クラシック音楽と、日本音楽のコラボレーションとか、何と何のフュージョンとか、異業種の芸術ジャンルの共演が流行で、なにか新しいものを生み出しているような錯覚に陥っているようであるが、もともと音楽に区切りなどない。音をだして何かをするという単純な共通性からは、もともと「なんでもあり」が芸術の筈である。

協働や共演によって新しいものが創造されていくなら、分断された存在は本来消滅していくものだ。長い芸術の歴史の中では、何かと何かが出会って新しいジャンルができ、その前のものは発展的消滅して来た。振り返ってみれば、すべてはもともとひとつ・・なのである。

このような、「もともとひとつ」、ひとつの根源から物事を辿り直す思考を唯識ては「円性実性」と呼んでいる。たったひとりの未分化な人間社会から、大きくなるにしたがい、だんだんに専門が別れ、知識が増えて学問分野が分けられてきた筈だ。音を出す・・そして楽しんだり、何かに用いたりする曖昧な世界から、だんだんと技能が洗練されジャンル化されてきた。哲学や宗教や技能から始まった知識活動が「学問」として細分されてきた。あまりに分断が進んで、根源をまるで忘れてしまうようになった。そしてあらゆる迷妄が生まれてきた。下社会問題の大半は、そんな迷妄の枝葉に過ぎない。

現代の知性の流行は、どうも「衣他起性」の世界で進んでいる。政治も、学問も、芸術も、人々の暮らしも、つながりを求める事に熱中して、壮大な迷妄に陥っている。衣他起性の世界から、円性実性世界へのシフトは、「悟り」そのものであるとされるので、そうたやすい事ではないのだろう。論者のように、悟りの世界からは遠い存在には、円性実性の世界は、理屈の上でふと垣間見るだけの世界だが、知識の方法として採用する事はできる。

円性実性の世界から、物事を見たであろう思想家は少なくない。自分の知っている範囲でも、ルネッサンス期キリスト教哲学者の「ニコラウス・クザーヌス」やの三才報徳金毛録にみられる「二宮金治郎」や、安藤昌益など
を紹介する事ができる。いずれも円の思想からはじまる世界を全体として捉える絶対的な立場に到達している。しかし、その弟子や後継者などは、残念ながら、その円性実性の世界を理解しきれていないらしく、衣他起性の思考でそれを理解してしまっている。

21世紀は、唯識の世紀だ・・とか吹聴する研究者もいるが、全体思考が世紀の難問を解決するだろうとの思いからすれば、誇大妄想でもないだろう。戦争、いじめ、差別、格差、貧困・・あらゆる社会問題を解いていくだう基礎的思考が円性実性、全体思考である。それだけ、人々が偏計所執性の世界で苦しみ、衣他起性の世界で無駄を繰り返していると言う事だろう。唯識論には、それだけの価値はある。他の全体思考の哲学も同様だ。

円性実性の思考が、有効に働くのは、環境学や、福祉、教育、社会問題などの分野だろう。老人福祉と子どもの福祉が連携して・・・と実行してみれば、ただの昔の社会で普通に行われていた事。海と山をつないで、環境活動を進めれば、塔達するのは昔の普通の自然の姿だ。

不生不滅 不増不減 ・・・否定の哲学、大乗仏教の哲学がみつめる先は、円性実性の悟りの世界である。唯識の哲学は複雑で重層的だが、エッセンスとして、円性実性の世界と、その前段階のふたつの世界のありようだけでも、思考の方法論としてもってもらいたい。

自分が人の話すと、多くの人とどこかで対話が途切れてしまうが、円性実性の世界から物事を出発できるかどうかの違いかも知れない。ぜひ、唯識論のエッセンスを学んで、全体思考を身につけて、世の難問を解決する仕事をしてもらいたいと思う。

クザヌスや金次郎の全体思考については、また別に解説したい。

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