【対の諺】 明鏡止水 鑢濁流 ― 2015/06/25
【対の諺】 明鏡止水 鑢濁流
(正) 明鏡止水
(意味) 曇りのない鏡と動かず平らな水。一切の邪念を断ち切って妄念のない清らかな心。悟りの境地。
(反) 鑢濁流
(意味) 鑢(やすり)と濁って激しく流れる水。鑢は自らは凹凸だが、他を磨いて平らかにする。濁流は自らは濁って止まらないが、大地を削り、下流に恵みをいつかもたらす。
(正)の言葉に対して、聖人君子・悟りの人は自ら閉じて安息しているが世の中には何の役にも立てない。それよりも、自らはとけとげしくても、また汚れていても、他を削り、磨き、清らかにするとのが道であるとの例え。
老荘思想や南伝仏教に対する北伝仏教の立場を示している。個人の悟りや完成を究極とするのに対して、悟ったものは、そこから返して汚濁の衆生のために、自ら汚れとなっても救いの道を歩む「菩薩業」が仏の本道との立場。
(正) 明鏡止水
(意味) 曇りのない鏡と動かず平らな水。一切の邪念を断ち切って妄念のない清らかな心。悟りの境地。
(反) 鑢濁流
(意味) 鑢(やすり)と濁って激しく流れる水。鑢は自らは凹凸だが、他を磨いて平らかにする。濁流は自らは濁って止まらないが、大地を削り、下流に恵みをいつかもたらす。
(正)の言葉に対して、聖人君子・悟りの人は自ら閉じて安息しているが世の中には何の役にも立てない。それよりも、自らはとけとげしくても、また汚れていても、他を削り、磨き、清らかにするとのが道であるとの例え。
老荘思想や南伝仏教に対する北伝仏教の立場を示している。個人の悟りや完成を究極とするのに対して、悟ったものは、そこから返して汚濁の衆生のために、自ら汚れとなっても救いの道を歩む「菩薩業」が仏の本道との立場。
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