【環境エッセイ】愛+怒り・悲しみ=行動 ? ― 2026/09/17
環境教育の源流として、自然保護運動と公害があると言われる。別々に進んで来たとも言えるけど、両者が一体であるとした方が正しいだろう。
環境教育をしても、なかなか具体的な行動に結びつかないと言われる。知識だけでは行動が発せられない。行動の原動力は何だろうと考えると、愛と怒りの組み合わせ 愛+怒り・悲しみ=行動 という図式があるかも知れない。
野山で、動植物や風景に親しんで、愛すべきものを心に刻み、そして街にかえり、それが踏みにじられている現場をみて、何とかしたい、守る行動をすべきだ・・・と行動に結びつく可能性は高いと思う。ただ、自然が美しいとだけ思っていても、個人の癒しにはなるかも知れないけど、社会改革には進まない。公害の被害を受けての怒りだけでも、どういう方向で動くべきか行動が定まりにくい。
レイチェル・カーソンにしても、石牟礼道子にしても自然が破壊される現実を描くとともに、その前にある愛おしい自然や豊かな暮らしも描くことで、強い影響を与えて、行動に向かわせてくれている。
なので、環境教育は 守るべき自然への愛と、踏みにじる人間の迷妄の両方を近接効果により近づけていくのが行動に進ませるには大切だと思う。
自然観察会で、ただ美しい自然を紹介するだけでなく、ダークツーリズムとして、自然が個触れている現場の両方を近づけて紹介する事によって、自然観察と公害教育の両方が統合された環境教育になると思う。
人間は良いところだけを賞賛して、反対に悪い所だけに注目して告発をするものだが、その両者を心で統合していけば、自然と現実的な行動につながっていくように思う。
賞賛ばかり、告発ばかりが一人歩きして、罵り合う分断の時勢だが、愛すべきものと、悲しむべきものを統合できるように、近接効果により心の統合を目指して、良い行動を生み出せるようにしていきたいものだが。
踏みにじられた野原で、小さく生きものが再生する芽生えを見つけると、どうすべきかすぐ分かる。反対に、一見美しい自然にも、気候変動の兆候が見える鋭敏な感性があれば、次に何をすべきか分かるのだろう。
写真はうちの近くで、河川工事や除草剤とかで、絶滅しそうなワレモコウ(吾亦紅)
環境教育をしても、なかなか具体的な行動に結びつかないと言われる。知識だけでは行動が発せられない。行動の原動力は何だろうと考えると、愛と怒りの組み合わせ 愛+怒り・悲しみ=行動 という図式があるかも知れない。
野山で、動植物や風景に親しんで、愛すべきものを心に刻み、そして街にかえり、それが踏みにじられている現場をみて、何とかしたい、守る行動をすべきだ・・・と行動に結びつく可能性は高いと思う。ただ、自然が美しいとだけ思っていても、個人の癒しにはなるかも知れないけど、社会改革には進まない。公害の被害を受けての怒りだけでも、どういう方向で動くべきか行動が定まりにくい。
レイチェル・カーソンにしても、石牟礼道子にしても自然が破壊される現実を描くとともに、その前にある愛おしい自然や豊かな暮らしも描くことで、強い影響を与えて、行動に向かわせてくれている。
なので、環境教育は 守るべき自然への愛と、踏みにじる人間の迷妄の両方を近接効果により近づけていくのが行動に進ませるには大切だと思う。
自然観察会で、ただ美しい自然を紹介するだけでなく、ダークツーリズムとして、自然が個触れている現場の両方を近づけて紹介する事によって、自然観察と公害教育の両方が統合された環境教育になると思う。
人間は良いところだけを賞賛して、反対に悪い所だけに注目して告発をするものだが、その両者を心で統合していけば、自然と現実的な行動につながっていくように思う。
賞賛ばかり、告発ばかりが一人歩きして、罵り合う分断の時勢だが、愛すべきものと、悲しむべきものを統合できるように、近接効果により心の統合を目指して、良い行動を生み出せるようにしていきたいものだが。
踏みにじられた野原で、小さく生きものが再生する芽生えを見つけると、どうすべきかすぐ分かる。反対に、一見美しい自然にも、気候変動の兆候が見える鋭敏な感性があれば、次に何をすべきか分かるのだろう。
写真はうちの近くで、河川工事や除草剤とかで、絶滅しそうなワレモコウ(吾亦紅)
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