環境身体論2013/05/15

【環境身体論】

 農薬や公害、放射性物質の問題などを論じている時に、多くの人と自分の思考に壁があるように感じる。

大抵の人は、放射性や農薬がいかに人に害を与えるかを心配する。もちろん、それは大切な事なのだが、それ以上に人間以外の生物や環境全体に与える影響に心寄せる人は少ない。

「この農薬は低毒性で、早期に分解するので、人体に被害を与える事はない。」との説明で、大量の農薬が販売使用されていく。一時の公害時代に比べれば、毒性に関しては改良されて来てはいる。

農薬使用は毒性だけが問題なのではない。どんな低毒性でも、昆虫類や微生物を殺す事には変わりない。人間への毒性のない除草剤でも草を枯らす事に変わりない。草が枯らされれば、それをエサとする土壌微生物も死滅する。草刈りの場合は、根が残り、刈った草を残せばそれをエサとして昆虫や土壌生物も繁殖していける。

農薬毒性だけを考えるのは、環境倫理学で言う「人間中心主義」の枠組みに止まる事になる。また、一部の動植物愛好家のような特定の価値ある動植物の保護のみに意識が集中するのも「生きもの中心主義」になってしまう。

環境思想のひとつの流れで、自分もその立場にしているのは「環境身体論」とでも言える立場である。もともと、人間も生物の一種であり、様々な生物の生存連鎖の生態系の中で、生命を保つ事のできる存在である。食物だけでなく、生物産生物に依存している面は多岐にわたる。免疫学の知見など考えれば、多くの微生物に人の健康は依存している事が分かる。

その中で、無関係と思われる身の回りの生物を死滅させていく事は、やがて自分の身体を傷つける事になっていく。様々なアレルギー疾患や、化学過敏症や、出生直後の環境による各種の障害などの増加は、環境というが傷つけられた事に起因する人の身体の障害ではないだろうか。

そんな視点にたつと、除草剤や農薬が安易に使われたり、土壌が掘り返されていく事は、なんとなく自分の身体に傷つけられているような気がしてしまう。自分もそいうだが、アレルギー疾患などをもつ人間にとっては、本当に体の痛みに思えてしまう。

安易な開発主義から人間の被害を攻撃する公害主義への思想進展が1970年代におきた。どちらも人間中心主義であり、やがて生態系中心主義のような流れが起こる。ただ、どれも非合理思想と結びつきやすく、多くは疑似科学になってしまいがちである。

環境身体論もともすれば、ガイア思想のような非合理思想に堕しちだあるが、科学的知見に基づく理論体系は可能であると考えている。

自分が環境を守る活動をしているのは、誰のためでもない。自分の身体を守るため、あるいは自分の身体と同等の環境を守るためである。

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